pre なの!ちゃん
- なの!
- 3月26日
- 読了時間: 7分
この記事ではできるだけ淡々と私の過去を書くだけの記事です。忘れてもいいように
最後の一文だけでも読んでくれたら嬉しい。
一応、自己紹介します。6500双祝福の下に産み落とされた家庭連合二世です。地方でなんとか大学生をやれてます。
幼少期(小学校入学まで
ほとんど記憶にないがハングル教育を受けていた。たまにお菓子をもらったり、カレーを教会で頂いてた記憶がある。
小学生の頃
まもなくして地元の教会が合併して大きくなった。小学生は日曜日の午前中に「二世会館」と呼ばれる場所で礼拝を受けていた。中高生の兄や姉は親にドアを叩かれ、怒鳴られながら引きずられるようにして土曜の夕方からの礼拝に連れていかれてた。
もうここから信仰はなかった。そもそも信仰したことないが
二世部長は威圧的な人だった。
カジョンメンセやご子女様の名前の暗記テストがあった。できなかったらアイアンクローというプロレス技を二世部長から直々に食らっていた。親が早く迎えに来て食らわずにいた日は泣くほど喜んだ。日曜日の朝が嫌いでワンピースを見るのが一時の麻酔薬だった。
親の送りが遅いので後ろの方に座るのが気まずかったし、二世部長の機嫌が悪くなるのが嫌だった。
天父報恩鼓(太鼓)を始めた。指導してくれるヌナ達も怖かった。家での練習が必須だった。礼拝後にあったので日曜日に友達と遊ぶことはなかった。やめたかったが、親が車で近所で遊ぶ私を追いかけまわした。やめさせてくれなかった。高校受験を期にやめれた。
教会の留学のために行われる全国統一テストを受けさせられた。原理テストを含めえ300点満点で299点を取ってムーンワールド?に掲載されていたらしい(プチ自慢)
二世部長が開催する高学年になると朝サッカーに参加し始めた。土曜の朝5時から8時前ぐらいまでサッカーをする会だ。中高生や青年の人も参加しており、最初は楽しかったがもちろん後悔することになる。自由参加だったのにいつのまにか参加することが暗黙の了解になっていった。毎週午前4時に起きて50分ほど自転車をこいで場所に向かった。これが中学生まで続いた。
中学時代
本当の地獄はここから。私は学校の部活は休めるのと部費がかからないので適当な文化部に入った。教会活動のためだ。そして薄々、家にお金がないことも気づいていた。本当はサッカー部とかに入りたかった。
月 ハングル会
火 勉強会in二世会館
水 たまに夜礼拝への参加
木 勉強会in二世会館
金 原理講義
土 サッカー 勉強会in教会 礼拝
日 小学生礼拝の面倒見 天父報恩鼓
中学生の時に友達と遊んだ記憶はない。
予定の合間合間にjr.STFの勉強会やミーティング、中和文化祭の時期では会館に泊まることも珍しくなかった。
ハングルは二世部長や副部長が教えてくれた。宿題やテストの出来が悪いとよく怒られていた。嫌だった。
勉強会は塾に比べると劣ったものだったが、青年の人が優しく教えてくれた。高校生もいたが、高校生の勉強を見ることは難しいらしかった。私は勉強がそこまで苦でなかった。他に比べるとよっぽどマシな会だったと思う。
原理講義は絶望だった。ハングルでの訓読があった。つっかえたり、間違えると二世部長の機嫌が悪くなる。私は数時間かけて読み仮名を振って予習していた。センター試験の前日、あるヒョンが休んだ。時に二世部長は指し棒をへし折るほど怒鳴っていた。
礼拝では成和手帳の提出があった。礼拝前にトイレに小一時間こもって1週間分書いていた。神様働くジャンケンポイにより司会と代表祈祷が決められた。
私は中2の夏にjr.STF入りした。同期は中1の冬で負けた。しかし、中3で原理検定3級を取りアドバンスメンバーにも入った。地方で最年少レベルの記録を信仰基準として打ち立てた。高校生になってから口酸っぱく言われるよりマシだと思ってたから。
中和文化祭ではエンタメ部門で西日本1位になった。劇やダンスの練習で教会や会館に寝泊まりしていた。学校の教科書も持っていき、練習後に定期テストの勉強をしてたのが懐かしいw。
jr.STFのミーティングではみんな嘘をついていた。誰も指摘することはないが。ありえない勉強時間を記録し、厳しい内的外的目標を立てていた。
高校生になると教会内で委員会があり礼拝準備委員会やイベント委員会があり、人数不足もあり、上のひとは掛け持ちしているようだった。もの好きなヒョンが体力向上委員を作り、毎月のように筋トレを基準にした体力測定がこのころはあった。
ハングルや原理講義、礼拝は苦痛で基本ずっと眠かった。舌を噛んでこらえていた。もちろん信仰はない。
修練会はむしろ楽だった。信仰はないけど教区修最終日にある原理テストは得意だった。green修はもちろんリーダー修にも参加した。私の教会に比べると他の教区はまだユルいようだった。
中3の受験真っ只中に父が救急車に運ばれた。後に後遺症で仕事もできなくなっていった。その日は泣いたが、1週間も経てば面会も面倒で何も悲しくなかった。私はこれでもかと「家の手伝い」を理由に教会活動をサボった。この時期では一番自由にできた。
高校時代(読み飛ばして)
本格的な中心メンバーになった。基本は中学生の頃となんら変わらない。大きな変化といえば二世部長の交代で多少穏やかな副部長が部長になった。中心メンバーであるが教会の苦しみの山場は超えていたと今は思う。私は2回目のgreen修、海外修や孝情祭(旧中和文化祭)の原理講義部門が控えていた。高校生になるとこれらへの参加が暗黙の了解だった。
救われた。コロナが来た。最高だった。初めて神に感謝した。教会活動は一時的に止まった。お金もなかったので学校の日以外は私は部屋に引きこもりとなった。高校の修学旅行や様々ないベントが中止になったがそれ以上の価値がコロナ休みにあった。
数か月もすると礼拝から教会活動が始まった。私の体は病弱になった親と対照的に大きくなり、教会活動のすべてを拒否した。私の頭は成和手帳のことを考えていた。どうやって礼拝までに何か月分の日誌を書けばいいのか。成和手帳を提出したくなかった。多少温厚な二世部長からすると下らないことだっただろう。私は部屋に鍵をかけ、親も開けられないようにしていた。
親も何かを感じたのか、私を生んだ理由や名前の話をしてきた。気持ち悪かった。二世部長も家庭訪問にきた。申し訳なく感じたが部屋を開ける訳にはいかなかった。
教会では勉強ができる方だったので受験も理由に高3前に完全なるフェードアウトを果たした。もう信仰もなかったであろう同期に中心メンバーの責任を押し付けて申し訳ないことをしたと思っている。そして高2の冬にX(旧Twitter)で統一教会の界隈を知り「神の子!なの!」が爆誕した。
高校時代は教会活動もほどほどに家の貧しさも辛かった。私の手元にお金はいつもなかった。何かをするために、学食を食べずにお金をためたり、家からおにぎりを作って学食で食べ足りない分を補っていた。携帯も端末だけかなり無理をして型落ちのものを中古で買ったりしてた。もちろん帰宅部だった。教会の周りも中心メンバーになると帰宅部ばかりだった。でもコロナのおかげで生徒会活動とか少しは普通の学生っぽいことできたかな笑。
進学先も選べなかった。地方で大学が少ないこともあるが、私の学力から丁度いい大学が周辺にはなかった。お金もなく進路も夢も捻じ曲げた。
私の教会ではSTFかCARPのどちらかに入る進路を選ぶことがほとんどだったが、フル無視した。
大学入ったよ!!(postなのちゃん?w)
私は今までのことをすべてを親にぶちまけた。お前らがクソな親であったことも。教会もすべて否定した。親からは「宗教・神を否定するなんて、人の心がない」みたいなことを言われた。もうその一言で悔いなく親を捨てれると思った。ありがとう。
教会活動はフレッシュマン修や高校の卒業礼拝に参加したぐらいだ。いまだに連絡をくれる人もいる。たまに怖いもの見たさに教会へのお誘いに乗ったりするだけ。教会では腫れ物。無敵。デカい態度を取っている。
今は奨学金をもとに大学に通っていて、最後の学生生活を噛み締めている。
最後に
宗教2世ホットラインを作ってくださった、渡辺さんやティーさん他の方々に感謝です。
この長々とした記事を少しでも読んでくれた人もありがとう。もっと細々としたエピソードもいっぱいあるよ笑。
信仰ある人へ。口が悪くなったりして不快な思いをさせちゃってごめんなさい。
家庭連合だけじゃなく他の宗教で苦しむ人も幸せになってほしい。
まだ教会にいる人もいない人も、他の宗教でも、二世ってだけで大好きに思えるよ。
Comments