エホバの証人は、選挙権を行使しません。 政治への中立な立場、という信条からだとのことです。 ※特定の宗教の信条を否定しておりません かつてエホバの証人二世であった私もその様に思い、選挙権があっても投票行動をすることはありませんでした。 ただ唯一、幼少期には違和感が。 それは、選挙当日に報道される総選挙結果のテレビ番組に対して、エホバの証人である家族が、なんだかんだと評論家の様な発言をする事でした。 選挙に行ってないのに? これは私の家族だけかも知れません。 ただ、違和感だけが残りました。 時が過ぎ、成人後、エホバの証人二世を辞めても、選挙に行く事はありませんでした。
ある総選挙の当日、選挙特番テレビを見ていた時、 その時、昔の思いが蘇って来ました。
「これは、私がおかしいと思っていた当人になっている」
なんとも言えないバツの悪さが心に残りました。 明治22年、衆議院議員選挙法で、直接国税15円以上納める25歳以上の男子に選挙権が与えられ、 大正14年には、納税義務を果たすなどの要件を満たした25歳以上の男子全員に選挙権が。 昭和20年、改正衆議院議員選挙法公布により、男女、要件の制約なく選挙権が与えられる。 日本では参政権も男女を問わず認められているが、海外では、まだ女性の参政権・選挙権が認められていない国もある。 例えば、スイスは、1971年に女性の(連邦の)参政権がやっと認められた。 書いてみれば数行だけれど、 この数行の行間に、何人もの人々の犠牲があったのだろう。 ご存知の通り、参政権を巡っての運動は世界各地で熾烈に起こり、多大なエネルギーと、人の命を犠牲にしてやっと手に入れたものだ。 これを、みすみす手の中から放棄して良いのだろうか。 これは、未来永劫、保証される権利なのだろうか? 疑問が頭をよぎる。
未来に生きる人達のために、
権利保持をし続けるために、
先人のラブレターを受け取り、
未来にこの権利が無くならないために、
今、権利行使をする事が一歩なのではないか。
今は、そう思っている。
宗教的な信条のために、
選挙権を行使しないことも、
参政権を果たさないことも、
この日本は認めている。
その様な、信教の自由をも認める社会を作るのも、その政策を選ぶのも、一人一人の声によってだ。
偶然に、出来上がった社会など無い。
エホバの証人の二世を辞めたら、
辞めようと思ったら、
一度、「社会を作る」とは、どういう事なのか考えて欲しい。
働いて住民税を納める事が社会を作ることかも知れないし、
子供を育てる事が社会を作ることかも知れないし、
地元の活動をする事が社会を作ることかも知れないし、
物を購入する事が、社会を作ることかも知れないし。
二世を辞めて、 【絶対的な神の組織】がなくなって 不安になることも多いと思う。
でも、 目の前には、「自分で考えて、参加して、作れる社会」がある。 先人たちが、汗水流して作ってきた社会がある。 悪しき慣行もあるけれど、 それを変えられるのも社会を作ることだ。 二世を辞めて、 就職活動で苦労することで、社会から拒絶されているのではないか、
と感じる事も有るかも知れない。 かつての私はそうだったし、 今でも、そんな風に感じる時もある。 それでも、 何とか、「社会を作ること」を、一度考えて欲しい。 今二世を辞める事で抱えている大きな不安は、その不安の解決の糸が見つかれば、
それは、後から同じ事を経験する人の糧になるだろう。 そして、二世の問題とは、 未成年の権利保証、未成年の信教の自由を認める事に他ならない。 先人達が、汗や血を流して獲得した選挙権を、今、私達がいとも容易く、
行使するしないに拘らず、恩恵を享受しているように。
太郎
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