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色の付いた愛情

更新日:2020年5月6日




宗教2世の悩みは打ち明けても相手に理解してもらえないことが多い。

吐き出したくてもすごく後ろめたくなったりする。

だから同じ悩みを抱えている人がいるだけでも結構勇気をもらえたりする。

まずうちの場合は貧乏でもなかったし、宗教の強制もなかった。だから虐待相談に行こうとか考えたこともなかった。家庭も円満だったし。親戚みんな創価だったし。


そもそも洗脳してきたのが親ではないと思っている。我が家には毎年引っ越しをしていた時期があり、各地の信者にはそのたびに歓迎された。多分これが洗脳に状態だったと思う。創価以外の人間と長く付き合う機会が無かったし。

だから教義に一々ツッコミをいれる自分がおかしいのかとも思った。母は「両親に支援されて信仰が出来るって恵まれているね」と言った。信仰するならそうだよね。


我が家の転居の歴史を考えると、創価の暖かみに随分と助けられていたと思う。各地の会員さんに助けられてきたのだろう。どんな場所に住んでも同志がいるから安心できると。世界中に創価の仲間がいるよと。


だけど俺は信仰を捨てようとした。実行しようとした時、頼れそうな人が誰もいなかった。頼るのも怖かった。だからカウンセラーに説明してもうまく伝わらない。状況を細かく説明しながら感情を吐きだした。



信仰しないってシンプルなことがこんなに難しいとは思わなかった。この苦しさは母には分からない。 信仰を始める時は教団内に仲間が必ずいる。でも脱出する時は1人。友人の手助けを信じられないくらい人間不信になるから。そうやって人間関係が壊れる。


信仰のことになると母の話ばかり恨んでしまう。理由はシンプル。 母は僕に自由に生きて欲しいと願っていたこと。日本のどこでも生きていけるように育てたとよく聞かされた。信仰を捨てようとした時も応援してくれたレベルなのに。でもどうしても創価の教えを手放すことが叶わなかった。今でも夢とか理想像とかが上手く想像出来ない。誰かが語った理想を自分の中に無理やり押し込んで自分の理想にしていた。




母は自分意志で信仰を始めた。信仰当初は僕の祖父母と結構揉めたらしい。信仰するのも苦労したと語った。母は救われたと思う。どこに引っ越しても寂しくないから。父も同じかな。俺も寂しくなくて良いと思っていたかも。 その間にドンドン洗脳されていったんだ、親に限らず教義への不満や疑問に正面から向き合ってくれた記憶はない。今でも根拠のないポジティブな発言は嫌い。


そして褒められると真っ先に謙遜する癖がついていった。「創価の子だから凄い!」って。そうやって俺の努力を褒めてくるから。あなたたち俺を褒めるふりして自分のこと褒めてるでしょ?だからどれだけ褒められても、自己肯定感が育たなかったんだろうな。根拠のない褒め方だもん。


挙句の果てに「創価の常識世間の非常識」と教わった。 どうしよう、非常識なことを信じなきゃいけないなんて。非常識が自分の基準になってるなんて。知らない間に分厚い仮面をかぶって暮らし始めたなんて!!!


1番欲しかったのは宗教に縛られない自分。宗教に縛られない人間関係。手を伸ばせば届くところにあった。でもそれは仮面をかぶっていた時の話。役割を持っていた時の方が人間関係を作りやすかった。だからバイトの同僚と仲良くなることがやたら多かった。しかも世代を超えて。俺結構頑張ってたんだな。


宗教で揉めてる家庭のイメージと我が家の実情が離れていたから、宗教2世の問題も自分事にしていいのか迷った。 でも違って、信じたくない宗教の信仰を強制されてる時点で「くるしい!」と声を上げていいんだ。 だからこんなまとまらない文章を書いた。


今になって後悔しているのは、うつ病になった時に宗教の教えから逃げ出したことが原因だと思い込んでしまったこと。同時にその危険性について掘り下げなかったこと。カウンセラーに打ち明けて、うつ病になる前に対処しなかったこと。


合わないものは合わないし、必要のないことを強制される理由はない。 自分が共感できる宗教2世の体験談がなかったのでこんな駄文を書いてみた。 誰かの心に刺さったら嬉しい。


高速シンカー



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この記事は誰かのための道しるべでもなく、誰かへのSOSでもなく、ただその時感じたことを記録として残しておくためだけのものである。 ※自身のnoteに書いた記事のセルフ転載です。 2025年現在の関係 著者子供時代と母 実家を出てから 銃撃事件後の1年間 現在の想い...

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