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社会的マイノリティとしての宗教二世問題

この記事ではあえて、今まであまり語られてこなかった社会的マイノリティという観点から宗教二世問題を論じてみようと思います。


「宗教二世問題」はどうみなされてきたか

「親の行き過ぎた宗教的指導、及び信者コミュニティに属していることからくる生きづらさ」として論じられることが多かった。と思います。


「宗教二世問題」で真っ先に救われるべきは、親が高額献金により破綻したり、親やコミュニティの宗教的指導により生活が困難になっている人達でしょう。そこについては私も同一の意見を持っています。この宗教二世ホットラインにも親の宗教による弊害がたくさん寄せられています。


「宗教二世問題」は全ての宗教二世を救うべきである

「宗教二世問題」と社会において語られるとき、その対象は親の宗教に対する信仰心のない人達に向けられます。なぜなら彼らは自由恋愛の禁止、高等教育の否定、教義によって裏付けられた精神的・肉体的虐待など、一般社会において当たり前のように存在する人権を享受することができていないからです。おそらく一般社会で当たり前の権利が認められないことは社会にとっても奇異にうつり、同情を買いやすいという側面があるのでしょう。


一方で私は「宗教二世問題」の中に、信仰の有無を問わず全ての宗教二世を込めて論じるべきだと思います。信仰がたとえあったとしても、「宗教二世」であることによって感じる辛さというものは存在しているからです。


社会的マイノリティとしての宗教二世問題

「宗教二世」特に日本における伝統宗教(仏教・神道)でない宗教二世は社会から見るとマイノリティであると言えます。日本社会に広く広がっているこれら二つの伝統主教から見ると異色な考えや宗教的儀式習慣を持っているからです。そのことによって生じる生きづらさというものが当然存在します。


エホバの証人の宗教二世であれば争いに参加してはいけないという教義から学校行事に参加しないということがあります。このような教えが生きづらさとして問題になるかどうかは、そもそもの社会における習慣を抜きにしては考えることができません。キリスト教会における日曜礼拝も、そのことが当たり前でない日本社会では友達と遊べなかったり、交友関係を制限する原因になってしまいますが、皆が日曜日に礼拝に行くような社会であればそこで生きづらさを感じることはないでしょう。イスラーム社会における食のタブーも同様です。日本人からみれば豚を食べれないのは可愛そうだと思うかもしれませんが、そもそも普段から豚を食さない文化圏で生きていればそのことで生きづらさを感じることはないのです。(教義的な食のタブーとは言い難いですが)日本人は昆虫食に嫌悪を示す人が多く、そのことを昆虫食が当たり前の東南アジアの人々から見れば可愛そうだと思われているかもしれません。しかし、昆虫食が当たり前でない日本社会では昆虫食が苦手なことを持って不幸だと感じる人はあまりいないのではないでしょうか?


このようにマイノリティである宗教の二世が生きづらさを感じるかどうかは、社会がどのような仕組みで動いているかに左右される部分も多分にあるのです。


マイノリティへはステレオタイプが向けられやすい

単に生活習慣が違って生きづらいというだけではない問題も存在します。それはマイノリティ集団に対する社会的蔑視です。マイノリティ集団はマイノリティであるということによって、社会からは同質的に見られやすいのです。(参照:ステレオタイプの社会心理学 上瀬 由美子)


そしてマイノリティ集団に対する悪評が立つとたちまち、その悪評は集団全体の性質としてみなされてしまいやすく、(多数派である)社会に対して反論を行い(多数派である)社会の構成員の認識を変えるのは酷く困難なものになってしまいます。


私が言いたいのは「カルト」とされる集団に問題がないと言いたいのではありません。少数派の集団はステレオタイプに見られやすく、そしてそのステレオタイプを反証することが酷く困難であると言いたいのです。そしてステレオタイプは宗教二世にとって生きづらさを生みます。このことは宗教二世に対する結婚差別や就職差別として生活上も問題になるのです。


よく耳にする反論として、宗教二世問題を生むようなカルト集団が悪い行いをすることがそもそもの問題なのだとする意見があります。この意見には一理あります。しかし、私はカルト集団をなくしていく上でも上記のようなステレオタイプは悪い影響を及ぼすと考えています。


カルトは本来状態であって固有の性質であるべきではない

宗教二世問題を生むような、狂信的で、閉鎖的で、ときに人権より信仰(あるいは思想)を優先させてしまうような集団をカルトと人々は呼びます。わたしもこのようなカルト性はなくなってしまえばよいと思います。一方でカルトの構成員やその組織自体が滅べばよいとは思っていません。カルトは状態であって、集団に存在する固有の性質ではないからです。日本人は戦前、狂信的で、(国際社会から見ると)閉鎖的で、人権より日本国を優先させました。その当時の日本社会では言論統制がなされ、多様な意見は存在せず、反対する意見のものは治安維持法によって処罰を受けました。ときには人間の命を投げ捨てるかのような使い方をすることもありました(特攻隊)。戦時中に国民から巻き上げたお金(戦時国債)は、戦後ハイパーインフレによって実質的に紙くずとなりました。戦前の統制社会の日本は、現在宗教二世問題においてカルトとされる集団と同等あるいはそれ以上の強制力を持ったカルト性を持っていたとは言えないでしょうか?しかしカルト性があったからといって、日本人や日本社会が滅べばよいのでしょうか?


私は過去にカルト性を持っていた集団であっても、その集団をより大きな社会から阻害するのではなく、カルト性を問題とし、様々な介入をしながら認めていくような体制が必要だと考えています。


カルトに対するアメとムチ

カルトを変えていくためには、カルトの持つ偏った行動様式を変化させ、問題のない集団へと移行させていく必要があります。ある集団には当然構成員がいますので、より具体的には構成員にたいして、偏った行動様式を改めさせる必要があります。そのためにはまず、構成員に対して行動様式に誤りがあるということを自覚させなくてはなりません。


ここで問題となるのが、カルトがカルトたる所以の一つでもあるその閉鎖性です。外に開かれていない集団において、その問題を指摘する人間が内部にいなければ、構成員の認識が変わることは望めません。教団の構成員の認識を変えたければ社会の側の声を教団の構成員に届けなくてはなりません。


マスコミ報道や圧力によって教団の構成員の認識が変わればよいのですが、そうは簡単にはいかないというのが問題の難しいところです。このことは人間が周囲の人間関係を通じて情報の取捨選択を行っていることに起因すると私は考えています。信徒共同体の中で生きている信徒にとって、自ら疑念を持ったとしてもその声は信徒共同体のなかでは少数派です。信徒共同体内部では信徒によって受け取りやすい発言が増幅されるので、信徒は被害者意識を募らしやすいが加害者意識をもちにくい構造になっています。この構造自体は戦争による加害について語られることは少なく戦争による被害が言説として流布しやすいことと同じで普遍的に見られることだと思います。


このような状況を打破するためには、教団構成員を社会に溶け込ませることが肝要です。教団構成員を社会に関わらせ、その社会的関係によって、カルト性を取り除いていくことができるのです。カルト性に対してはカルト的行為に対する罰や監督と、カルト構成員の社会への同化の両方が必要です。カルト構成員に対するステレオタイプは、カルト構成員をよりカルト団体に依存させ、その依存が構成員の思想の過激化をうみ、過激化した思想が問題行動を誘発します。カルト構成員に対するステレオタイプに基づく罰は、構成員の美味しい血を吸っているカルト幹部を利する行為であると私は考えます。


カルト構成員に対するステレオタイプは問題である

以上のようにカルト構成員に対するステレオタイプは、「宗教二世を生きづらさ」という観点でも「カルト集団をなくす」という観点でも問題となるものです。


カルト構成員だからとひとくくりにして見るのではなく、構成員一人ひとりを尊重し、カルト依存の構成員を減らすことは、周り巡ってカルト集団の弱体化に繋がります。そして同時に宗教二世の生きづらさも解決する道であると思います。


カルト構成員だからとって、全ての人間が幹部の命令に従うロボットのような人間ではなく、一人の考える人間なのです。カルト構成員が社会の一人ひとりと何ら変わらない人間であることに社会が気づき、社会と構成員が交流を深めていく中で初めて構成員の認識に変化が訪れます。実害を被った人は仕方のないことですが、そうでない人にはどうかカルトの構成員であるからといって関係を切ってしまうことはせずにいてもらえるとありがたいです。


最後に:やっぱり教団はクソだ

教団を擁護しているかのように取られるのもシャクなので最後に。未だに自らの弁護ばかりを繰り返し、被害者や過去の被害に向き合おうとしない教団幹部はクソだと思います。末端構成員はともかく、信徒の生活の破綻を知りながら信徒の美味しい血を吸い続けた教団幹部には厳罰を下してほしいです。


私について

最後に気にされるかたもおられると思うので、一応私の立場を明らかにしておいたほうがよいでしょう。私は統一教会二世の信者一家に生まれた祝福二世です。山上一家のような高額献金で生活が脅かされるような両親ではなかったため、大学進学も親のお金ですることができています。現在は社会人です。教団との関わりとしては小学校から大学まで親につれられて通っていました。高校生のときには教区の中心的なメンバーの一人として中高生をまとめ上げる役割につきました。しかし大学進学に伴い大学で習った科学によって生じた教団の教義に対する疑問から現在はほとんど教団には通っていません。


それにしても私が誰であるか(信仰心を持っているか、あるいは教団に対して利害関係があるか)によって文章の価値を問われるというのも、嫌な社会ですね。


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