私は今、心療内科の通院を再開しています。
カウンセリングも受けています。
私の心を苦しめてきた、宗教を基盤とした物事の捉え方が、いつもいつも…脱退して30年経った今も私を苦しめます。
苦しむたびに、子どもの頃、逃げることを選択出来なかった自分を責めるんです。
助けてくれなかった親を恨む。
そんなことをしても、全然自分の心は報われないのに。
どうか、これを読んでくださる方々には、所詮は私の独り言だと受け止めていただきたい。
私は苦しいけど、私に埋められた間違ったインプットを今、正そうとしている最中です。
思えば、なぜこんなに苦しかったのか。
なぜうまく自分に活かせなかったのか…。
活動の中に、信者さんの体験談を聞く場が必ずありました。
人の話はとても面白く、私の心に響いていったんだと思います。
その主な話は、親に反抗して、グレて、散々人に迷惑をかけて、自分が何をしてきたかに気付き改心していくものばかりでした。
それで、親に逆らうことはいけないことだと、人のために生きていくべきだと、刷り込まれていったのではないかと思います。
元々、親に逆らうようなこともしない子でしたから、ある意味、そんな刷り込みすら本当は必要なかったんです。
ただ、私は人の人生をも自分の人生かのように捉えてしまうそんな癖というか、本質があったのだと最近知ることとなりました。
その人がどれだけ親に逆らって、人に迷惑をかけて、ようやく改心したその人生は私の人生ではない。
その人の人生を自分に重ねて、一緒になって親孝行を返さなきゃいけないほど、私は親にさほど迷惑なんてかけてないんです。
親であれば、当たり前に子どもにするであろうことを過剰に反応して感謝して、恩を返そうと必死でした。
自分が生まれた以上、自分の人生を歩くことが自分の幸せであるはずです。
人のために生きることばかりではダメなんです。
私はそれが当たり前のことと間違ったインプットをしたことで、人のためになるようなことを出来た自分になかなか満足感を得られませんでした。
当たり前だから、喜べなかった。
感情を乗せることが出来ていませんでした。
当たり前になっていくと、なんでも何も感じなくなりますよね。
そんな毎日を脱退してからも気付かずに続けてしまいました。
ようやくこの年になって、心にも限界が来て、
自分の心と向き合ってみたら、あまりにも自分がいろいろな思い違いや我慢してきたことがあったことに気付けました。
きっと、私は親に反抗してみたかったのかな?とか…思ってみたりもしましたが、自分のために生きること、自分のためだけにやれることに対して、とてもとても罪悪感もありました。
私は、幸せになるために苦しみがあると信じさせられた。
苦しみがあることで安心感を得るような毎日だったんだろうと思います。
今、自分の中の苦しみと向き合ってみて、そんな間違ったインプットを修正していきたいと思っています。
ただ生きることだけで、幸せを感じられる人生でありたい。
そこに苦しみは伴わなくていいと。
それでも、私の心に張り付いたインプットを剥がすのはとても困難です。
なので、こうして話していくことで、私の中に残っているもの全てを吐き出して剥がしていこうと思い、ここに残させていただきます。
長々と失礼いたしました。
最後まで読んでくださった方には心から感謝いたします…
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