はじめに
この文章は統一教会二世の一人が高校生の時に考えたことを記しています。 長さの都合上分割していますが、興味を持っていただけた方は
からお読みください。
高校時代の教義の話II: 高校の時に疑問に思ったこと
うちの教会の教義の話: 大雑把に教義概要では少し教会側の肩を持ってみました。 とはいえ、当時の知識でも疑問に思うところはいくつかあるわけです。
高校まで学校教育を受けているので、
聖書って歴史の話なの?神話じゃないの?という疑問が第一に湧きます。
一応、教団側もこの疑問に対する答えは準備していて、
聖書というのは神が当時の人間が分かりやすいように、
物語形式で神が言ったかったことを書いたものであって、
より神が言いたかった事は原理講論に書いてある。
聖書が述べている事は比喩的表現であって、実際のことではない。
という反論が存在します。
後、原理講論はキリスト教徒に証するために書かれたものだから聖書を前提としているのだ。
あるいは、原理原本という教祖が書いた本があってその本を元にしてとあるインテリ信徒が構成し直したものだから不完全なんだとか、
不完全であるからその道から外れても救われる道が残されているなんて反論を耳にしたこともあります。
(最後の反論については流石にどうかと思いますけどw)
基本的に教会内ではこの原理講論が一番言及されることの多い書物だとは思いますが、
聖書を前提として議論するのどうなの?みたいな反論をしたところ、
哲学書として整理された原理講論があるとの話を当時の二世部長からいただいたので、
その本を読んでみることにしました。
きちんと述べると全部は読めてないというか読んでないのですが、
割と本の最初で話の前提に挫折したからです。
特にわたしが問題と感じたのは
神の存在証明
霊魂の存在証明
の二つでした。
高校時代の教義の話II-I: 神の存在証明
記憶が曖昧で申し訳ないのですが、確かその原理講論をベースに哲学的に解釈し直した哲学書の中には、神の存在証明について、自然を観察することによる帰納的証明という形式が取られていたと記憶しています。帰納的証明というのは観測される事実から理論を導き出す方法であり、具体例から一般的な真理を推測する方法です。白鳥を観測すると白いのばっかりだから、白鳥は白いと言えるというような議論が事例となります。
よく、白鳥は白い物であると定義されているから、この白鳥は白いだろうという、一般から具体を予測する演繹と対比される概念として知られています。
確か、自然に認められる調和を指して、このような調和には創造主という存在が必要である。
というような議論の進め方であったように記憶しています。(間違っていたらすみません)
これは進化論への反論として出される、ランダムな変化で人間のような高度なシステムが形成されうるはずがないという議論とも類似しています。当時のわたしにはこの質問に反論できるほどの知識を持ち合わせていませんでした。自然の調和というのが漠然としていることも相まって、
よう分からんとしか答えようがなかった気がします。
高校時代の教義の話II-II: 霊魂の存在証明
個人的により引っかかったのはその哲学書に述べられた霊魂の存在証明の方でした。
確か1948年かそれぐらいの脳科学の論文を引用し、前頭葉が魂の居場所であるというような話を述べていた気がします。
まず、引用が古すぎるのではというのが気にかかったのですが、もちろんそれだけでは反論にはなっていません。
当時わたしが気になったのは分離脳の事例でした。
はじめに分離脳の話を知ったのはこちらのサイトがきっかけでした。
大雑把にいうと人間にある右脳・左脳の連結部分を負傷した人たちがどうなるかという話です。
観測結果からすると、右脳・左脳間の連携が取れていないのです。
その結果、一方の脳にだけ情報を提供するとその情報が提供されていないともう一方の脳が思い込む。といった不思議な現象が生じます。
この事例が人間に(単一の)霊魂があるという見方と矛盾するのではないかと思いました。
通常、心というのは人間の身体を操るものとして想定され、教会内でも身体と精神の区別は、外的・内的といって、精神をより大事にするべきだという言い方をよく耳にします。
(まぁ端的にいうと肉体の欲望に負けずにストイックに行こうぜという風潮が多いです)
では果たして、統一的な心は一人の人間にあるのでしょうか?
もしないとしたら、霊魂の持続やあの世という概念はどのように影響を受けるのでしょうか?
そういうことを考えると、問題のある箇所が多いことでしょう。
(この反論は統一教会だけでなく既存の多くの宗教に当てはまると思います)
この疑問は親に聞いてみてもはぐらかされてしまいました。
あるいは統一教会の本部にメールで聞いてみたりもしましたが、
"脳の機能不足によって心との連結が断たれている"との返事が返ってきました。
その反論を間に受けるならば、心というのは常に脳の異常によって働いていない可能性がある。
今この文章を書いているわたし、あるいは読んでいるあなたも、心で感じていると思っているが、実はそうでない可能性がある。
ということを考える必要があるのではないでしょうか?
果たして、そこまで反論して守られる心とは実在するのか、実在したところで私たちの日常に影響しているものなのでしょうか?
皮肉なことに、肉体の異常と心の単一性を切り離す反論によって、結局今わたしの感じている心や感情って、教会の述べている"心"とされているものと関係ないのでは?という疑問というか考えが生まれるようになってしまいました。
高校時代の教義の話まとめ
とはいえ大体のところ高校生の段階では完全に否定しきれなかったところがまだまだ多くありました。この教義への疑問は解決されなかったとはいえ、その影響はかなり小さくとどまっていたし、そもそもかなり教会というコミュニティに多くの人間関係が割かれていたので、
いきなり関係を断つ勇気がなかったということなのかもしれません。
それに、教会という秘密にしないといけないことがあると、
なかなか他人と仲良くなるということにも踏み出せない部分があるというのは、 言い訳になってしまうのでしょうか。
この続きについてはまた書いて行こうと思います。
Кали
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